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東京地方裁判所 昭和36年(特わ)1087号 判決 1964年5月30日

被告

川南豊作

ほか十一名

主文

被告人川南を懲役二年に、被告人篠田、同小池を各懲役一年六月に、被告人安木を懲役十月に、被告人川下、同老野生、同古賀、同落合を各懲役八月に処する。

被告人川南に対し、未決勾留日数中百五十日を、被告人篠田、同小池に対し、未決勾留日数中二百日を、右各本刑にそれぞれ算入する。

被告人安木、同川下、同老野生、同古賀、同落合に対しては、本裁判確定の日から二年間、右各刑の執行を猶予する。

<訟訴費用関係―省略>

被告人前田、同浦上、同時津、同布沢は、いずれも無罪。

理由

第一  破壊活動防止法(以下破防法という。)違反被告事件について

(有罪の被告人らの経歴)

被告人川南豊作(以下単に川南という。)は、富山県水産講習所を卒業し、一、二の会社に勤務した後、朝鮮に渡り独立して川南工業所と称して缶詰製造業を創め、昭和十一年頃には、長崎県香焼島造船所を手に収め、長崎市松ケ枝町に造船業を主たる目的とする川南工業株式会社(現在は、昭和重工業株式会社となる。以下川南工業という。)を設立し、代表取締役社長となつて、戦時中の飛躍的発展を導き、我が国造船業界屈指の大会社に育てあげたが、終戦後は荷烈な労働争議がつづき、剰え自らも公職追放にあつたこと等のため経営不振を招き、昭和二十九年には遂に破産宣告を受け、一時は会社の事業も閉鎖され、昭和三十三年強制和議が成立し再開されたものの、昭和三十四年四月頃には、責任を負つて退社するに至つた。しかしその後も、川南は、同会社に対し、技術面、経営面の指導等を通じて実権をふるい、又南米開発株式会社(後に日本重工業株式会社と商号変更した。以下単に南米開発という。)の代表取締役社長となり、その他二、三の会社に係わりをもつているもの、

被告人篠田英悟(以下単に篠田という。)は、旧制の中学校を卒業後、海軍甲種飛行予科練習生となり、海軍の戦斗機操縦者として前線の戦斗に参加し、終戦後昭和二十一年三月に川南工業に入社し、川南から重用され、一時衰亡にひんした同社の再建に尽力し、保安課長、香焼島造船所長代理等をし、昭和三十六年五月に後記のようないきさつから退社したが、その後も川南工業の社員等に対して相当の影響力をもちつづけ、かつては反共団体である菊旗同志会の中央委員、青年行動隊長として活躍したことがあるほか、新日本協議会(以下新日協という。)、次いで全日本国民連盟(以下全国連という。)等の反共的団体の有力幹部との交りを持つていたもの、

被告人小池一臣(以下単に小池という。)は、旧陸軍士官学校(以下旧陸士という。)第六十期生であり、終戦後神戸経済大学経営学専門部を卒業し、一時警察予備隊に入隊したこともあつたが、昭和二十九年四月頃、九州の食品会社勤務をやめて上京し、対左翼謀略活動に従事したり、計理士をしたりし、昭和三十四年九月頃から印刷業を営み、同年末頃、旧陸士の先輩半田敏治の紹介で川南を知り、同人の許に出入りし、経済的援助をもうけるようになり、かたわら日本の歴史と伝統精神の研究を目的とする同志の集りである国史会を主宰していたもの、

被告人安木茂(以下単に安木という。)は、旧陸士第五十九期生であり、終戦後東京外事専門学校ロシヤ語科を一年で中退し、鳥取県庁職員、広告外務員等をした後、永らく主婦の友社の社員をしていたが、小池の紹介で川南を知り、昭和三十六年八月末同社を退き、川南の社長である南米開発の社員として、月々の給与を受けていたもの、

被告人川下佳節(以下単に川下という。)は、中央大学文学部哲学科、同経済学部経済学科を卒業したが、在学中から前記新日協の下部組織であつた新日本学生連盟の幹事長として活躍し、昭和三十六年三月頃から同志の先輩を通じて篠田を知り、次いで川南に接するようになつたもの、

被告人老野生義明(以下単に老野生という。)は、中央大学経済学部を卒業し、一時会社に勤めたが、在学中から右新日本学生連盟に入るなどして、川下のもとで学生連動を共にし、昭和三十六年三月頃から川下と同様、篠田を知り、川南に近づくようになつたもの、

被告人古賀良洋(以下単に古賀という。)は、高野山大学卒業後、郷里で僧侶となつたが昭和三十六年六月頃、学友である篠田の実弟剛の紹介で、篠田を頼つて上京し、以来同人に兄事し、形影伴う間柄にあつたもの、

被告人落合勇(以下単に落合という。)は、工業学校卒業後、旧海軍施設部の技工士として勤務し、終戦後は事務員、店員等を転々し、その間右翼運動に身を投じ、次々に数団体に加入したが、昭和三十五年五月頃、友人の紹介で小池を知り、昭和三十六年七月頃から、同人経営の印刷会社ちはや社に入り、前記国史会の熱心な一員であつたもの、

である。

(被告人川南。篠田、小池、安木、川下古賀、落合の「罪となるべき事実」)(ただし、事の全貌を明らかにするため時の経過に従つて「これに関連する同人らの前後の行動」および前田準、浦上芳彦、時津鶴雄、布沢昌雄の「それらに関連する動き」をも、必要な限度で<>内に入れて記載する。)(しかし、罪となるべき事実、特に川南ら八名の犯意発生の経過および時期を明らかにするのに不可欠な事項は、<>内に入れない。)

一、(一) 川南は、川南工業を退社した昭和三十四年四月頃から、多年の実業人としての波瀾に富む体験を基礎に経済政策に重点をおいた幅広い政治構想を練り始め、かねて親交のあつた元富山県知事矢野兼三、元護国団常任理事国粋会参与の右翼理論家小島玄之らの助言をえて、これを永久無税(約三十兆円と評価される国有の財産を担保に三十兆円の紙弊を発行し、これを平均年一割の金利で民間に貸付けて得られる三兆円の収入と、公営事業、輸入税等の合理化による増収一兆円、合計四兆円をもつて国家の財源にあて、官公吏の人員を約五分の一に減じ、この節約によつてえられる余剰財源を公共建設事業に投資し、将来、終局的には徴税しない状態にする。)永久無失業(土木百年計画、すなわち道路、河川、港湾等の改良工事、山野の計画植林、農地改良、農産物の加工工場の建設、中小水力発電所の建設、都市計画、耐震、耐火、耐風住宅の建設等を積極的に連続推進する等諸般の公共事業をおこし、失業者をこれに吸収して、政治、経済の安定をはかる)永久無戦争(軍隊は指導軍人約二万人を置くだけで、警察軍以上のものとせず、他は災害対策、国土開発等にあたらせ、ミサイル等の宇宙兵器の開発に努め、国防力を飛躍的に増大させることによつて外からの侵略の危険を防止し、永久に戦争をなくする。)を骨子とする諸政策にまとめあげ、同年暮頃には、これを「三無主義」と称し、これに重要な関連をもつ政策として独自の移民政策、国内産業政策、教育政策等をも練り、これを効果的な救国の策として、この実現に相当の熱意と自信をいだき、側近の篠田、その頃出入りしはじめた小池等にはかつて、その実現のための諸方策の検討に着手し、一時は、川南、篠田の間で、これらの政策をかかげて選挙にのぞみ、政界に進出する議が話題に上つたこともあつた。

(二) 折から、(すなわち、昭和三十四年暮頃から)日米安全保障条約(以下単に安保という。)改定反対のための大衆示威運動がようやく激化し、その前後に全学連等一部の過激派によるいわゆる国会構内乱入事件、羽田空港占拠事件、ハガチー事件等の不祥事が相次いでぼつ発し、物情騒然となるや、右被告人ら三名は、事態の発展を憂慮して内外の情勢につきしばしば会合し検討を重ねるうち、昭和三十五年五、六月頃には、政治の腐敗、政府の弱体は民心を失い、警察は過激な大衆行動の前に施す術なく、自衛隊は、この種の混乱時には到底その機能を発揮しえず、経済的無策は、国民生活の窮乏と不安を深め、日本教職員組合によつて指導される教育方針は歴史と伝統の軽視、破壊を招き、かようにして国民大衆の間に漸次容共的気運が高まり広がる等共産革命への客観的条件が熟しつつあると判断し、これに対処する国家革新の方策を考究していたが、折悪しく川南工業の営業不振が深まり、一時それを中止するのに止むなき至つた。翌昭和三十六年三月頃、川南工業の六億増資の見込も立ち、再び右方策の考究がつづけられることとなつたが、すでに前年中期頃から政治的テロ事件(いわゆる河上丈太郎刺傷事件、岸首相刺傷事件、浅沼稲次郎刺殺事件、嶋中事件等)が相次ぎ、左右の対立による社会不安が増大するに及び、被告人ら三名は、一層左翼革命の危機感を深め、これを防止するには、情況次第では、そのぼつ発に先だち、過激な実力行動にうつたえてでも、国家の革命をはかり、三無主義政策を実施に移して、救国の目的を達すべきであると考えるに至つた。

(三) 篠田は、昭和三十六年五月頃、川南の了解を得て、川南工業を退社してその嘱託となり、同人の資金援助を受けて、共産革命阻止のための右の実力行動をふくむ国家革新への準備行動に専念することとなり、反共的団体である新日協の脱退者らによる全国連の組織作りへの資金援助をつづける等、広く同調的気運の醸成に努めるとともに、実力行動の中核隊を学生、労働者、自衛隊等から求めようと考え、まずその一環として、学生運動に経験の深い川下、老野生に川南から積極的な資金援助を与えさせ、同年六月頃には、市川市国分町千八百五番地に「三無主義」にちなみ、かつ、川下、老野生の「金なく、地位なく、名誉なく」のスローガンにそつて命名した「三無(ゆう)塾」と称する学生修練道場を、川下を塾長、老野生を企画総務局長として、塾生八名、総員十名で発足させ(後に総員十三名となる。)、ひそかに万一にそなえ塾生に射撃訓練をさせる意図のもとに同年七月三十一日頃ライフル銃一丁を川下に貸与し、同年八月十日頃には、同人らに対し、塾生にも銃の打ち方位できるようにしておいた方がよいと示唆し、その数日後には川下らに都内の某銃砲店の所在をおしえてライフル銃一丁を購入させた。なお、篠田は、同年六月初旬頃から、同人を頼つて九州から上京してきた古賀を自宅に起居させ、自己の自動軍運転者として働かせていたが、そのうち同人は、篠田に対し、肉親の兄以上の親近感をいだくようになり、事あるときは、その指導のもとに進んで生死を共にしようと思うほど傾倒するに至つた。

(四) 他方小池は、昭和三十六年四月頃から、旧陸士の同期生でかねて親交のあつた浦上芳彦(以下浦上という。)を、同年五、六月頃から旧陸士一期先輩の安木を川南に紹介して、同人の共産革命に対する危機感、三無主義政策実現の抱負等にふれさせたが、この結果安木は、同年八月末川南から、さし当り同人の出資による映画事業に従事し、有事の日に備えるように説得されて、約十年勤務した主婦の友社を退社して川南の南米開発(当時別に事業はしていなかつた。)に席を置き、以来同人と日常を共にし、その意をうけて行動するようになつた。なお、その頃落合は、すでに小池の経営する印刷会社ちはや社に身をおき、同人と談論する機会も多く、これは兄事し、その指示のままに同人に生死を託するほどの気持になつていた。

(五) 川南と篠田は、政治的暴力行為の取締りを目的とする政治的暴力行為取締法案(以下政防法案という。)に対する昭和三十六年五月頃からの総評等を中心とする一連の反対運動を、左翼勢力が集団的暴力の温存を計るための運動であるとみていたが、同年八月頃から、日本炭鉱労働組合(以下炭労という。)傘下の多数の組合員が作業衣にヘルメツト、キヤツプランプ等をつけ、九州北海道等から相次いで上京し、政府の炭鉱合理化政策の転換を求めて国会周辺に集団示威行進をはじめるに及んで、安保改定反対斗争当時における大規模な大衆行動の情況と、当時内外の勢力が呼応し、我が国に左翼革命を招来しようとしているとの一部の流説とを思い合わせ、左翼勢力が九州地区の激烈な斗争を体験した炭労の精鋭を前面に押し立て、革命行動の焦点を国会に求めて、本格的動員の準備態勢に入つたと推断し、その頃行なわれたソ連副首相ミコヤンの訪日を右の諸情況に関連のある国内親ソ感情の打診と解し、さらに、株価の暴落、ドル保有量の減少、金融引締め、物価上昇等社会不安を醸成すべき諸徴候があらわれつつあるのをみて、ついに昭和三十六年九月上旬頃には、政府の治安物価対策等の破たんから翌昭和三十七年三月頃に共産革命の発生が必至であり、当面は政防法反対の大規模な国会周辺の大衆行動、年末の賃上げ斗争等による革命態勢への盛り上げが予想されるが、この機会に、炭労の暴走による革命的行動の突発も計り難いと、これらに対処するには、情勢の推移をみながら、機をみて事前に武装勢力多数で開会中の国会を急襲して附近を騒乱状態におとしいれ、国会議員、閣僚等を監禁し、非常事態宣言を発布させ、強力な治安態勢を確立して、左翼勢力を放遂し、三無主義政策を実施に移して、国政の安定を計るべきである、とする計画の大綱を定め、その間小池も、独自の特務工作による国家革新の方策を練るかたわら、川南、篠田両名との話し合いを通じて、右計画の大綱に同調した。

二、かようにして、川南、篠田、小池の三名は、おそくとも共産革命のぼつ発が必至と思われる昭和三十七年三月頃までに、しかし、情況によつては、そのかなり以前でも必要に応じ、機を失せず起ちあがることができるように、右の計画の大綱を客観情勢の推移とにらみあわせて、速やかに具体化し、現実化するため、互いに緊密な連絡を保ちながら、昭和三十六年九月上旬頃から種々の会合を催して策を練り、同志の獲得に努めるとともに、必要な装備、武器等の入手にも意を用いることとなり、

(一) 篠田は、昭和三十六年九月五日頃、東京都文京区向ケ丘弥生町二番地はの三十一の同人方に、川下、老野生を招き、三無塾の運営資金の提供者として川南を紹介し、同人から翌年三月頃には国会占拠による共産革命の発生が必至で事前に防止する必要があること、敗戦以来の国内態勢を整備し、国運を回復する要諦は、三無主義政策の実現にあること等が説かれ、昭和三十六年九月十八日頃にも、同所で篠田から、川下老野生両名に対し、共産革命、特に炭労等の暴走による左翼革命の危機に対処してけつ起する強い決意が語られ、またその頃篠田から古賀に対しても、前記計画の大綱とその実現への固い決意が告げられ、同月二十六、七日にも川南、篠田は、同所で、川下、考野生に会い、同人らに同年十月末政防法案審議をめぐる国会周辺の混乱に乗じて、国会占拠の武力行動を起こすが、その際、その外周に自衛隊のけつ起を擬装するため、千人程度の映画ロケ名目のアルバイト学生を動員したい旨述べて協力を求め、その後で、同人らと共に国会周辺の情況を見分し、<篠田自身も同年九月末頃九州に出向いて鳥栖市の信仰団体である宣真聖法団を主宰する実弟剛、八女市外の知人である蓄産業者牛島広次らにも働きかけ同様目的から数十名の人員を上京させるべく工作し、その頃、同郷の池口恵観に代議士秘書になることをすすめて上京同居させ、翌月上旬に川南の口ききで、国会内部の情報入手を計つて右池口を同郷の代議士馬場元治の秘書とし、その後池口を通じ右の情報若干を入手し>、同年十月三日頃には、同都文京区真砂町十五番地川南方で、同人から、川下、考野生に九州の川南工業工場から防毒面を取り寄せること、武器は同月下旬頃、韓国から入ること等が語られ、川下、老野生は、事の全貌を十分理解しえないまま、篠田らの憂国の情、気魄に動かされ、いわれる通り、同月初旬頃から再度にわたつて、中央大学職員野呂政輝に映画エキストラの学生アルバイト名目で体育部の学生千名程度の募集を依頼し、同月十八日午前中篠田方で、同人に野呂を引き合わせ、同人をして同月二十六日から三十一日まで学生七百名を集めることを引受けさせるに至り、同十八日午後、川南方に、川下、老野生、古賀、三無塾生の佐野和徳、吉田明雄、代議士秘書池口恵観が招致され、そこで、同人らに対し、篠田から、同月末の国会混乱時に、トラツク二十台、ジープ十台を使つて出動し、擬装自衛隊のアルバイト学生多数に外周を包囲させ、同志二百余名で威かく射撃しつつ国会を襲い、そのうち三無塾生を中心とする学生部隊約六十名を「天誅組」と名づけ、篠田が隊長、川下が副隊長となり、十五名づつ四班に分けて、老野生、古賀、佐野、吉田が各班の責任者となり、池口が国会内部から閣僚全員入場を手を振つて合図するのに応じて議場に突入し、閣僚、国会議員を監禁し、長崎の川南工業従業員のうち二十数名を議事堂入口に、同じく三十数名を周辺入口に、予備自衛官の約四十五名を道路閉鎖に、学生を議員会館、首相官邸に、長崎から上京した同志の維新隊四班四十名を場内整理に、十名を伝令隊に配置して備えを固め、反抗するものに対しては、銃撃を加えるなど成り行きによつては人の殺傷に及ぶことも辞さず、国会の内外を騒乱状態におとしいれ、革命委員会を成立させ、戒厳令をしき、他方一部の同志で、自衛隊、警視庁、防衛庁等に対し、抵抗しないようにそれぞれ働きかけさせ、三無主義政策を実施に移す考えであること等が明らかにされ、同月二十日にも同所で、川南から川下、老野生に参加者の決行直前における分散集合計画等これに付加する所があり、全面にふれて具体的計画が細かに示されるに及び、古賀は、前記のとおり、かねてから篠田に深く傾倒しており、しかもすでに同人から同様の話をきかされたこともあつた関係等から、同人らの言を格別怪しまず、自然これに同調する気持になつたが、川下および老野生は、事の重大さに若干不安と疑問をおぼえつつも、ここに至るまでの川南の巧みな話術と自信に満ちた態度、篠田、川南らの憂国の情、気魄等に動かされ、共産革命のぼつ発を未然に防ぎ、祖国を守るためには、篠田らの主張する方策に協力するほかないという気になり、映画ロケ名目の学生動員の真の意味もはつきり理解しうるに至つたにもかかわらず、誇りある青年指導者としての立場上、もはや弱音をはくこともできないという気持もあつて、ひきつづき篠田らに同調する態度をとり、同月下旬学生動員がいつたん中止になるまで、篠田、野呂両者間の連絡をはかつていた。もつとも川下、老野生(特に川下)は、その頃から、塾に対する篠田らの資金援助が一層円滑を欠くようになつた事情等もあつて、次第に同人らの言動に不信を抱くようになり、同調する気持も多少うすらいでいつたが、その後も、種々の事情からきつぱり手を切る態度に出ることができず、翌十一月下旬篠田が再度の学生アルバイト動員手配に備えて野呂と接触を保つこと等を依頼した際にも、これに従うような態度を示し、また同年十二月初め頃静岡県達磨山キヤンプ場附近に塾生の合宿訓練に赴く際にも、篠田に対しては、同人らの意図にそう射撃訓練のためであるような言動に出、<更に篠田は、<同年九月中旬頃、社用で上京した川南工業布沢昌雄(以下布沢という。)に対し、翌年三月における共産革命の危機と、これに対処してけつ起する気構えを明らかにして奮起を促し、さらに昭和三十六年九月末、長崎市において、川南工業社員時津鶴雄(以下時津という。)、川口義見、白石茂夫らにも同様のうつたえをしたが、その頃から翌十月初旬にかけて、川南は、前記計画実行の装備とするため、川南工業社員後藤舜に命じて、鉄かぶと五百個、半長靴百足等の入手先を調査させ、これらと前後して、韓国から大量の武器入手を計り、同国京城市在住の康炯吉と書信等でその連絡をし、篠田は同じ頃、南九州に南米開発社員募集名目で、同月末に隊友会(元自衛隊員から成る会)の会員達の上京を求めて、二、三の隊有会支部役員を歴訪し、さらに>川南と語らい、同年十月十二日頃時津、布沢、川口義見、川南工業の下請業者田中清満を長崎から上京させ、前記篠田方で同人から、左翼革命の機先を制して同月末頃政防法案審議をめぐる国会周辺の混乱に乗じ、川南工業従業員、学生、旧軍人その他の階層からなる同志多数で、挙銃、小銃、カービン銃、手榴弾等を手にして国会を襲撃し、閣僚、議員を監禁し、挙銃で威かくして強力な反共対策の実施を求め、出動する警察官らには威かく射を撃し、次第によつては、殺傷も辞さず、同所一帯を騒乱状態におとしいれ、さらに当路に迫つて非常事態宣言を発令させ、反共の新政権を樹立し、強力な反共政策をとる計画を、国会議事堂附近の見取図をひろげ、これに具体的人員の配置計画等を記入しつつ明らかにし、かつ同計画は一二〇パーセント成功の可能性があること、時津、田中は議事堂内の整理に、川口は議事堂出入口の警備に、布沢は周辺のカカシ部隊に加わることにすること等を附言し、この計画実現のため、少くとも二百名程度の人員の動員を求め、そのうち川口が三十名位、田中が四、五十名位、その余は時津、布沢でそれぞれ責任を持ち、要請に応じてもらいたいと依頼し、更にその際田中に対して長崎方面で挙銃が入手できないかという趣旨の質問もした。<依頼を受けた時津、布沢らは、事態の容易でないことに狼狽したが、共産革命の危機に対する篠田らの憂国の情、気魄等に動かされ、自ら事態の推科を適確に把握しえないまま、川南、篠田との多年にわたる特別な関係もあつて、篠田の依頼を断り切れず、内心その企図に疑問をいだき、困惑しながらも、表向きは同人らの意にさかわらず、当座を糊塗し、自己の生活上の立場等も顧慮して、その頃長崎に帰るや、とりあえず時津は、部下の従業員西一に命じて、社用出張の名目で、十名程の上京者の人選をさせ、時津、布沢、川口は、同月二十一日頃川南工業長崎工場内で、浜崎鷹男、白石茂夫、川口正、峰熊男ら主だつた従業員を上京させ、篠田から直接説得させる形に運ぶことを協議した。一方川南は、その頃後藤舜に命じて、輸送用のトラツク十台、パトロール車十台を注文させ、また作業衣上下百組、作業帽百個を購入送荷させ、川南工業長崎工場から防毒面百個ヘルメツト三百個を取り寄せ、これらを川南方に保管して着々準備を進め>、また同月二十二日から二十四日頃まで、時津、布沢を上京させ、その間に、篠田から時津、布沢に重ねて社用を名目にする従業員動員と武器入手の要請が行なわれ、<同人らは心密かに事態の発展を憂慮しつつも、前記の諸事情と前同様の心境から右の要請を断ることができず、前記従業員らを連絡あり次第上京させることを篠田に約し、その後、同月末の決行は延期され、従業員動員は沙汰みになつて内心ほつとしたが、布沢は、同年十二月初め頃、再三の川南からの催促をかわしかねて、田中清満が年末の金策のついでに、神戸附近まで挙銃を探しに行つた際、川南の指示に従い、川南工業の合計から工事請負代金名義で、現金五万円を旅費として交付し>、

(二) 小池は、同年七月頃から、落合と日常を共にし、種々談論するうち、川南の主唱する「三無主義」政策等の話もしていたが、早くも同月下旬頃には、落合に対し、近く同志多数で人の殺傷も辞さない過激な実力行動に訴えて国家革新のためけつ起する旨を告げ、これに対し、落合は、小池のかねての言動から、それを、川南が中心となつて三無主義政策を実施しようとする昭和維持の行動であると解して直ちに参加を約し、小池にすべてを委ねて生死を共にする心組みを示し、同年八月頃には、小池に命ぜられ、国会の電源、電話交換所等の調査に当り、同年十月頃までには、前記の計画の大綱を知らされて、いよいよその決意を固め、同年十一月中旬には、同都新宿区神楽坂三丁目三番地川田旅館で、小池から右計画実現に必要な武器として、ライフル銃二、三十丁の入手の調査を命ぜられてこれに態じ、その頃、右計画に参加する意思のもとに、同都港区青山北町四丁目七十五番地銃砲店小川四郎方で同人に対し、ライフル銃の製造元、価格等をただして調査、これを小池に報告し、以来決行参加を期して、同人の出動指示を持ち設け、

(三) 小池は、前記のとおり、安木、浦上を川南に紹介したが、安木は、同年九月頃から常時川南に接する間に、同人から計画の大綱を聞き知り、その意にそうように、翌十月初旬から中旬にわたり、都内および近県の自衛隊の二、三の駐とん部隊に、同月中旬には小池と共に九州に、さらにその直後一人で北海道にと旧陸士の同期生らを歴訪し、小池は九州では自分の同期生らを単独に各地に訪ね、万一の場合の協力を期待して、旧交を温め、あるいは自衛隊員の気持を探るなどし、またその頃安木は、川南の指示を受け、群馬県高崎市外の自衛隊吉井弾薬支所の所在をたしかめに赴いたこともあつた。<なお同月上旬頃には、小池の旧陸士同期生の前田準(以下前田という。)が小池の紹介で南米開発に入社し、川南から折にふれ計画の大綱を知らされていたが、前田は、かつて日本共産党(以下日共という。)の組織内に潜入し約十年間情報収集活動をした自己の身近かな体験に徴し、共産革命の危機については川南らと見るところを異にし、それほど切迫感をいだいていなかつた>。

(四) このような情況のもとに、川南の要請で同年十月二十二日頃九州から上京してきた元陸軍少将桜井徳太郎をかこんで、同日頃同都文京区湯島三組町十六番地旅館湯島荘で川南、小池、安木、前田、浦上が、翌二十三日頃同所で川南、小池、村山格之(当時川南工業社員、元海軍将校、五・一五事件被告)が同月二十四日頃東京都港区赤坂中の町十八番中の町寮島多満方(以下、本件では、島旅館と呼ぶ。)で川南、小池、前田が、翌二十五日頃同所で川南、小池、安木、前田が連日会合し、その席上、川南が共産革命の危機を説き、これを防止するための方策として、当時開会中の臨時国会の会期末の同月末に、川南工業の工員、学生等約三百名で、ライフル銃、擬兵器等をとり、尾崎記念館ほか一個所で自衛隊、警察官の服装に着換えて、開会中の国会を襲い、閣僚、議員等を議場内に監禁し、抵抗する者(間僚、議員をもふくむ。以下同じ。)等に対しては、殺傷も辞せず、同所一帯を騒乱状態にし、非常事態宣言を発して戒厳令をしき、三無主義政策を実施に移して国政を立て直す意図であることを明らかにし、その際は、桜井に戒厳司令官の労をとつてもらいたいとの希望を述べ、さらにその間、川南、小池から閣僚、共産党の議員等を裁判にかけて殺害する必要がある旨の発言もあり、これに対し、桜井から、あくまで流血の惨を避けるべきこと、そのためには、自衛隊を動かさなければならないこと、少くとも自衛隊三個中隊の協力を得る必要があること、いまだ川南らの準備が不十分と思われること、大義名分がなくては国民は支持せず、成功する見込みがないこと等が指摘され、同月二十五日川南の発言で実施の時期を同年十二月初旬の国会開会日とすることとなつたが、この結果、(1)同年十月二十八日頃、小池、安木、前田は、陸上自衛陸市ケ谷駐とん部隊に旧陸士六十期生の一等陸尉渡津弘道、同小路倶視を訪れて、旧陸士同期生としての交友関係を開き、(2)翌十一月初旬に小池、前田は渡津と酒食を共にし、(3)同月二十日頃には小池、安木、前田、浦上が、渡津、小路両名と同都港区赤坂永川町三十四番地「たか井」で会談し、主として小池、安木が共産革命の危機の切迫とこれに対処する気構えを説き、小池が武器の貸与方を口走るなどし、(4)同月二十二日頃には、小池、前田が小路を自宅に訪ね、(5)その数日後には、二回にわたり、小池、前田が小路と酒食を共にし、<なおこれより先、同年十月三十一日の臨時国会最終日には、川南が、小池、安木、前田を伴つて国会周辺を視察し>、また(6)同年十一月二日頃には、安木の旧陸士同期生で、小池の指導にも当つた旧陸士五十九期生の小松聡明が九州から上京した機会に、小池、安木、前田が「たか井」等で小松と会談し、小池、安木が計画参加を求め、(7)川南は、同月十六日頃、帝国ホテルロビーで、かねて村山格之を通じて会見を求めていた三上卓(元海軍将校、五・一五事件被告)と小池も同席して会見し、三無主義政策を説き、前記計画の大綱を打明けて反応打診し、(8)同月二十日頃、小池、安木、前田が、「たか井」で、三上と会つて、主として小池が計画についての三上の質問に答え、同月二十四日に、さらに川南、小池が、三上と「たか井」で会い、事後の収捨策をふくめて計画全般についての同人の質問に答えるなどして、同人の参加を策し、(9)同月二十二日、三日頃には、川南が、元川南工業社員であつた都内市ケ谷の陸上自衛隊幹部学校教官一等陸佐桑原安正および都内練馬の陸上自衛隊第一普通科連隊第二大隊長二等陸佐高森信雄に招きをかけ、篠田と共に、桑原と自宅で会談し、(10)同月二十八日には、同所で篠田と共に桑原、高森両名に会い、共産革命の危機、国会襲撃の企図等を話し、自衛隊の指揮命令系統を質したりなどし、計画への同調を期待して、反応を打診し、安木は、(11)同年十月下旬頃、旧陸士の同期生で、習志野空挺団の三等陸佐新井勇を誘い、都内国電お茶の水駅附近の飲食店等で飲食し、自衛隊の治安対策、指揮系統等を尋ね、翌十一月中旬頃には、同人の自宅を訪ねるなどしたが、安木は、この間川南、少池らに接しているうちに、生来の温厚な性格、その常識的な考え方から当初は川南らの真意、その過激な手段による実行計画に内心若干の疑問をいだいたものの、漸次同人らの憂国の情や気魄に圧倒され、激動する不安な世相のもと、一途に国を思う情と、共産革命への危惧の念等もあつて、いつかその渦中にまきこまれてゆき、川南らと実行を共にする気構えでその意にそう前記の各行動に出ていたものである。もつとも安木は、同年十一月下旬頃から再び川南らの計画や言動に疑問をいだくようになり、同人らに同調する気持が薄らいだが、川南から相当額の給与をうけている関係等から最後まで同人らとはつきり手を切ることができず、その後も同様の態度をとり後記の会合等にも出席していた。<なお川南は、これらの動きと平行して、後藤舜に命じて、同年十月下旬には布バンド、同年十一月初旬には目的完逐と表示したタスキ五百本、同月中旬には、携帯用拡声器十個等の装備の購入調査にあたらせ、その頃、川南自ら篠田、小池、安木、前田を伴つて、前記自衛隊吉井弾薬支所に赴いて、武器弾薬の所在をたしかめ、篠田は、同年十一月二十日頃、島原市の隊友会支部役員川下勉に三十名ないし五十名位の会員の上京を見学旅行名目で勧誘し>、

(五) 同年十一月二十五、六日の両日、神奈川県厚木市七沢二千七百七十六番地福元旅館に、川南、篠田、小池、安木、浦上、前田、古賀が会合し、湯島荘、島旅館における論議を前提にして、さらに同年十二月九日の国会召集日を期し、九州方面から約二百名、三無塾から約十五名、小池に従う者から約十名を動員し、その一部を国会近接の尾崎記念会館に待機させ、その余は、九段会館等からトラツク十台位で輸送し、挙銃、ライフル銃などを武器とし、天皇行幸直前の同日午前十時半に国会を襲撃する等の話し合いが行われ、川南の発言で、川南が自らその総指揮をとり、部隊を議事堂に突入する部隊、各門を警備する部隊、道路を遮断する部隊、予備隊、警察庁に説得にゆく部隊、防衛庁に説得にゆく部隊等にわけ、その場にいた者(ただし、古賀を除く。)および梅田康之(元陸軍将校、旧陸士第五十四期生)にそれぞれ各部隊の指揮の割り振りがされ、さらにその際、各部隊は三十名から五十名とし、消防庁等の屋上に見張りを立て、無線通信機で相互連絡をとり、突入に当り、衛視、警備警察官の武器をとり上げ、議事堂内に閣僚、議員を監視し、情況により人の殺傷も辞さず、同所一常を騒乱状態にし、非常事態宣言を発布し、臨時政府を樹立し、時を移さず、防衛庁、警察関係に部隊を派けんして、新政府に協力を求める一方、携帯拡声器で出動した警察機動隊を説得し、新政策の第一着手として月五万円以下の所得者に対する無税の方針を打ち出し、順次三無主義政策を実施してめくこと等について、川南を中心に検討が行なわれ、その際、川南から、近く韓国から武器が入ること、知り合いの貿易商から輸出名目で猟銃を購入すること、防衛庁、警察関係、アメリカ大使館等にゆく人達を朝めし会の形で当日集める工作を進める意図であること等が付言され、<その頃川南は、貿易業者李樹森に対し、ライフル銃二、三十丁の入手を依頼し、その契約金として現金十五万円を同人に交付し、篠田、古賀は、東京、市ケ谷、各ユースホテルに同年十二月八日から十二日まで、動員のための二百数十名の宿泊予約をし、小池は、国史会関係の旧知である野村緊造に命じて、挙銃、自動小銃等の入手の調査をさせ、そのための費用として同年十一月下旬から十二月上旬にかけて四回にわたつて現金合計四万円位を同人に交付し>

(六) 同年十一月二十九日、東京都新宿区十二社三百四十番地十二社天然温泉会館(以下十二社温泉会館という。)に川南、篠田、小池、安木、前田、古賀が、同年十二月一日には、同所に、川南、篠田、安木、前田、浦上、古賀、古賀光龍(宣真聖法団企画部長)、野村繁造が会合し、福元旅館で行われた論議の結果に基き、さらに検討した結果、動員可能人員の不足から国会諸門の警備、道路の遮断等をとり止め、国会外周への勢力散を避け、全勢力を議事堂に集中し、その屋上に射撃部隊を配置し、旧陸士出身者らがこれを指揮する点等の修正を加えた計画が打ち出され、動員勢力の集合場所としての尾崎記念会館の適否、国会集結に至るまでの輸送その他の手筈等につき意見がかわされ、<その間、右十二月一日の会合の場で、川南から小池の命じた以上の数量の武器の入手調査が野村に依頼され、その費用として同人に現金一万円が交付され>、

(七) 同月四日には、右十二社温泉会館に、川南、篠田、小池、安木、前田、浦上、古賀、時津、古賀光龍、野村繁造が会合し、さらに計画の検討を進めるに当り、川南がその頃行なわれた三無塾生の合宿訓練に対する篠田の独断承認を激しくとがめたことから、両名の激論となり、篠田が憤然として、古賀を伴つて退席するに至つたうえ、閣僚の国会参集時刻も不確定な場合が考えられて、同月九日の通常国会開会式直前の決行予定を中止し、翌五日同都港区芝新橋一丁目三十二番地、第一ホテルに川南、篠田、小池、安木、前田、時津、古賀、古賀光龍らが会合し、主として川南の発案で決行予定を翌年一月の国会再会後に変更し、<前記のユースホテルに対する動員者の宿泊契約もこれに応じて変更され>、その後の対策は、さらに十二月十二日に前記十二社温泉会館に集合して協議することとなり、計画の具体化がさらに進められ、実現の危険がいよいよ切迫しつつあつた矢先、同月十一日から、本件による被告人らの逮捕が着手されるに及び、川南らの企図は挫折するに至つたである。<その間浦上は、川南らの計画に疑問をいだき、いまだ同人らと実行を共にする決意は固まらなかつたが、憂国的談議を好む風と、若干の好奇心と、小池との多年の交友関係等から同人に誘われるまま、本来の教職の遂行に支障をきたさない限度で前記各会合等に出席し、また前田は入社日が浅く、川南らの真意、計画の全貌を十分に理解しえなかつた関係、共産革命の危機について川南らほど切迫感をいだくことがききなかつた関係等から、同人らと実行を共にする決意は固まらなかつたが、川南から相当多額の給与を受けながら、他に何ら仕事を与えられなかつた事情、かような渦中に巻きこまれたのも不運な巡り合せかとあきらめるような気持もあつて内心とまどいつつも、表面的には川南らの意にそうよう、同人の指示する所に従い、前記の各行動に出ていたものである。

三、右のとおり、川南、篠田、小池、三名は、昭和三十六年九月初め頃から同年十二月初め頃までの間に、同人らが当初に描いた計画の大綱を、他の被告人らとの東京都内あるいは厚木市における種々の会合、およびこれらの会合にあらわれた論議に即応する種々の下準備行動を通じて、次第に具体化し、実現に近づけてゆくことに努め、すでに同年十月十二頃には、その決行の時期、方法等も相当具体化され、これに即応する下準備も着々進められるに至つたが、この頃から、同年十二月初め頃までの間に、安木、川下、老野生、古賀、落合の五名は、川南らの企図の内容、危険性等を知りながら、これに同調する意思で前記会合の一部に出席し(ただし、落合は小池と会談するにとどまつていた。)あるいは右計画実現のための下準備行動の一部を分担することによつて同調する意思を明らかにし、もつて、川南ほか七名の右被告人らは、右の期間内に、若干時期のずれはあるが、東京都内等において、川南、篠田、小池いずれかの関係で、全員が直接あるいは間接に川南を中心に結ばれながら当時行なわれつつあると考えた政治上の施策(すなわち、左翼の集団暴力的動きに対し、毅然とした態度をとることができず、また外交、経済、教育等の面でも無為無策で、国家を危うくしつつあるとする諸施策)に反対し、自ら正しいと考えていた新たな政治上の施策(すなわち、いわゆる「三無主義」政策の実施を基本とする確固とした反共的諸施策)を推進する目的をもつて、武装した数百名の多人数で開会中の国会を急襲し、その附近を騒乱状態におとしいれ、かつ、その間抵抗する者等に対しては、殺害も辞せずという意図で騒擾および殺人の陰謀をしたものである。

(証拠の標目)<省略>

(有罪理由および無罪判断についての補足的説明)

一、本件を騒擾および殺人の陰謀と認め、川南、篠田、小池、安木、川下、老野生、古賀、落合を有罪と認めた理由(ここでは、これらの者だけを被告人という。)

右の理由は、判示した事実自体によつてすでに明らかであると思われるが、弁護人の主張する諸論点に関連し、補足的に説明する。

(一) まず、本件陰謀の成立過程および態様は、全く特殊なものである。証拠によると、本件各会合に出席した被告人らの間には、血盟的誓約がかわされた形跡はなく、その団結は、それほど固いと思われないこと、各被告人の性格、考え方、生活態度等には、、かなり大きな相違があり、その共通点としては、暴力による共産革命は絶対に許さない、我が国の歴史や伝統は、あくまで尊重すべきであると考えていた点くらいであること、本件各会合における発言量は、川南が出席しているかぎり、同人のものが圧倒的に多く、篠田、小池がこれにつぎ、他の者は、時に口をさしはさむ程度ではつきり賛否の意思表示をすることもなく、川南の「独演」、他の者の「御説拝聴」とみられるような場面もあつたこと(川南は、これらの席で、自己の体験談や一般的政治論、経済論等本件に直接間連のない事項に言及することも多く、自然参会者の中から冗談などがとび出すようなこともあつて、そのふんいきは、必ずしも常に息苦しいものばかりではなかつた。)各会合においては、明確な決議ないし決定がされたことはなく、その場の単なる思いつき、あるいは気焔、とみられるような発言もあり、数日後に取り消されるようなことも珍しくなかつたこと、川南を除く他の被告人らは、直接あるいは間接に、多かれ少なかれ、川南からの経済的恩恵に浴していたこと等の諸情況が認められる。したがつて、本件各会合は、共産革命を防止するための単なる研究会、あるいは青年を愛し、日本の前途を憂える川南が、同憂の士を談笑の間に教育するために催した集りにすぎない、とする弁護人らの主張にも、一理ないとはいえない。また被告人らの司法警察員や検察官に対する各供述調書は、一定の観点から川南らの発言および行動の一部を採りあげ、これを巧妙につづりあわせたもので、必ずしも本件の真相を伝えるものではない、被告人らの中には、逮捕前、本件に関する新聞報道によつて与えられた先入観、捜査官憲に対する対抗意識、自己の軽卒な行動に対する悔悟の念等から、事実を誇張したり、歪曲したり、合理化したりして述べたものがあるという弁護人らの主張にも傾聴すべきものがある。

(二) しかし、判示の個々の外形的事実は、その前提又は趣旨を除き、被告人らもこれを認めるか、積極的に争つていないし、これを裏付ける客観的証拠もある。そしてこれらの事実を時の流れに従つて動態的に考察すると、被告人らの本件に関する言動が、前記の諸事情にもかかわらず、次第に具体化され、これに対応する下準備が着々進められ、緊迫感を加えつつあつたことを観取することができ、証拠全体に照らし、その意味するところを検討すると、これらの言動が一定の目的のもとに行なわれた一貫性あるものとして、すくなくとも、判示程度の態様の陰謀の事実を認定することは、十分可能であると思われる。有罪とされた被告人八名は、川南を中心に、判示のような形態で、本件陰謀に関与したと認めるほかはない。

(三) 本件陰謀の特殊な態様からすると、各会合に出席したというだけで、この陰謀に加わつたとみることは困難で、その認定には慎重を要するが、各会合においては、川南らの計画の実現策が討議され、着々下準備が整えられ、これらが、一部修正、変更されながらも、全体として遂次発展させられていつたこと、この過程で、被告人らが、多かれ少なかれその実現に必要な役割りを果たしたこと等の情況が認められる。詳言すると、川南、篠田、小池三名の当初の計画が、昭和三十六年九月初め頃から同年十二月初めまでの間にその実現のための下準備と微妙にからみあい、かつ一進一退しながら、次第に具体化され合理化されてゆき、その間他の被告人らも、時期を異にしつつも、それぞれこの情況を認識し、判示各行動に出ていたものと認められるのである。特に、同年十月十二日頃以後には、決行の予定日が定められ、事細かく、武器の使用入手方法をふくむ、具体的方策が検討され、被告人らの手によつて、これに対応する下準備も一部はすでに行なわれ、さらにひきつづいて行なわれようとしていたことが明白である。もとより今日からみると、右の計画内容には、かなりずさんな点があり、その成功の可能性については、疑問をさしはさむ余地が多いが、当時の不安な社会状勢、一部の被告人らの思いつめていた気持とその影響力、実行力、下準備の進行情況等に徴すると、きわめて近い将来にそれが実行に移されまたは移されうる緊迫した情況にあつたことは疑いなく、被告人らの計画は、もはや単なる論議の域をこえ、他からの言論による説得等には容易に服しえない段階に立ち到つていたと認めるのが相当である。したがつて、判示のとおり、右の情況が客観的にも明らかになつたとみられる昭和三十六年十月十二日頃から同年十二月初め頃までの間に、明白かつ現在の危険を伴う騒擾および殺人の陰謀が成立したと認めざるをえない。(本件が予備と認められない理由、明白かつ現在の危険を伴う陰謀の成立、陰謀の個数等についての判断は後に項を改めて更に説明する。)

(四) 被告人らは、本件各会合においては、共産革命発生と同時あるいはその直後に、これを鎮圧するための諸方策を検討したにすぎない、したがつて治安機関とはできるだけ協力する考えであつたと主張しているが、証拠によると、右の主張は、単に事の一部を誇張したもので、これを容認することはできないと思われる。詳言すると、本件各会合の席でも、右のような諸方策が全然のぼらなかつたわけではなく、また被告人らの中には、治安機関に対し比較的協力的であつたとみられるもの(たとえば、川下、老野生。この点については後述。)もあるが、各会合で主として採りあげられ検討されたのが、右の諸方策とは全く相容れない、判示のような事項であつたこと、被告人らが全体としては、治安機関との協力を計るよりも、その目を警戒する方により多く意を用いていたこと(各会合で論議された事項自体の内容からも、この点は明らかであると思われるが、そのほか、たとえば、川南、篠田が偽名あるいは仮名を用いていたこと、会合場所、ホテル等の予約も本名でしなかつたこと等)は、疑いないところである。しかも各会合は、三無主義政策を主唱し、判示のような時局認識のもとに国家革新を考えていた川南あるいは同人とほぼ同じ考えでこれと表裏をなして動いていた篠田を中心に催され、他の被告人らも、直接あるいは間接に、川南らの右の思想、抱負等にふれ、理解の程度に差こそあれ、いずれも同人らの意図を諒解していたものと認められる。したがつて、被告人らの行動は、すべて判示のような政治目的の実現に連つていたといえる。更にこの実現の方策が判示のとおり、挙銃、小銃等をたずさえた武装勢力多数で開会中の国会を急襲し、これを占拠しようとするものである以上、被告人らは、騒擾についてはもちろん、その過程で抵抗する者(閣僚、議員をもふくむ。)等に対し殺傷の結果が発生するかも知れないことも、予想し認容していたと認めるのが相当である。(一部の会合では、多数の殺害対象人物の名があげられ、その殺害方法が話題に供されたことさえあり、川南、小池には、この点につき一層明確な強い決意があつたのではないかとの疑いもあるが、これらの話が出た際の状況、被告人ら全体の気持等からみると、判示程度の殺意があつたと認めるのが相当である。証拠上も、各被告人につき、すくなくとも、この程度の犯意は認められると考える。)

(五) 次に二、三の被告人について、個別的に判示の判断を補足説明する。

(1) 川南が昭和三十六年二月二十一日付で渡米旅券の発給をうけていたことは事実である(旅券発給事実証明書参照)が、これは、犯行の時期とほど遠い時点であつたことからみて、川南の実行意思を否定する価値に乏しいと思われる(安木は、川南から武器入手目的の渡米の口吻をきいたともいう。)また同年十二月十三日付朝日新聞朝刊「記者席」欄には、川南が「二ケ月ほど前に」当時の清瀬衆議院議長を訪れ「参議院選挙に立候補してみたい」と語つていたとの記事があるが、審理の結果によると、それが右時点の事実であると確認しがたいばかりでなく、その頃川南が参議院議員立候補のため特に注目すべき具体的準備をしていた形跡はなく、同人が当時なお同議員立候補の意思をもつていたかどうか疑わしい。更に同じ項、川南工業長崎工場で解体した米軍空母内に相当数の機関銃等があつたのにこれを使用しようとした形跡がないとの点については、それらが直ちに使用に供されうるものか、どうか、その搬出によつて企図発覚の危険がなかつたかどうか等の問題があり、右の点を川南の実行意思否定の論拠とすることは困難である。以上の理由で、右の諸事実は、いずれも川南の実行意思を否定するには足りないと考える。

(2) 安木が主婦の友社を退社して川南の許へ移つた当初の心境には、念願の映画事業に対する川南の資金援助を期待した点が多分に認められるが、安木の度重なる下準備行動と、その際の積極的言動からすると、同人の温厚な性格等が禍いして、川南の自信に満ちた態度と強い説得力、小池の直情的な性格と行動力等に幻惑圧倒され、判示のとおり、次第に本件の渦中にまきこまれてゆき、同調的行動をとるに至つたと認めるのが相当であつて、専ら川南からの事業資金獲得を狙つて、終始内心と裏腹の行動に出ていたとするのは、安木の性格等からみて、むしろ不自然である。要するに、本件に関連する安木の内心の動きには、若干微妙なものが観取され、判示でも、ある程度その点を明らかにしたが、全然川南らに同調する意思がなかつたと認めることは困難である。安木の犯意を否定するために申請された各証人の供述も、右の認定を動かすには足りない。

(3) 証拠によると、川下、老野生は、「三無塾」の運営については、川南から篠田を通じ相当の資金援助を受けながらも、終始、「イデオロギー以前の人間性」の確立という塾本来の理想の追及を忘れず、できるだけ塾が不純な政治目的等に利用されなよように留意していたと思われること、「三無塾」には、設立当初から市川警察署の署員がしばしば出入りし、川下、老野生らと比較的隔意なく交際していたとみられること等の諸情況が認められる。これらの情況は、川下、老野生の実行意思の有無を判断するについて無視することのできない事情と思われるが、事実、本件に関する同人らの内心の動きには、安木の場合と同様、若干微妙なものが観取されるのである。

しかし他面、判示のとおり、川下、老野生が昭和三十六年九月五日頃から翌十月三日頃までの間に数回にわたり、川南、篠田から本件計画の大綱を話され、奮起を促されていること、同人らの要請に応じ、同月初め頃から再度にわたり、情誼につながる同学の先輩野呂政輝に対し、映画ロケ名目で体育部の学生約千名の動員を依頼し、同月十八日午前中には、同人を直接篠田に引きあわせ、七百名の学生動員を引き受けさせていること、更に同日午後には、篠田から、国会襲撃の方法について事細かに説明を受け、その際の塾生の役割について指示され、篠田らの計画の危険性、学生動員の真の意味をはつきり理解しうるに至つたにかかわらず、その後もひきつづき、川南、篠田に同調する態度を変えなかつたこと等の情況も認められるのであつて、これらの情況に川下、老野生の誠実、真摯な人柄等を思いあわせると、同人らが、単に塾の運営資金欲しさから、不本意ながら表面的に、川南らに同調する態度をとつていたと認めることは困難で、川下、老野生は、判示のような経緯、心理をへて川南らに同調していたと認めるのが相当である。

二、前田、浦上、時津、布沢を無罪としたことについて。

本件公訴事実の要旨は

「被告人川南、篠田、小池、安木、川下、老野生、古賀、落合、浦上、前田、時津、布沢は、共謀のうえ、共産主義に反対し、三無主義による諸政策を推進する目的で、昭和三十九年九月上旬から、同年十二月上旬までの間、昭和三十七年三月と予想される共産革命の機先を制してけつ起し、閣僚、議員が、ことごとく参集する国会を武器をとつて襲撃し、同所及び附近な騒乱状態におとしいれ、非常事態の宣言を発し、閣僚議員等を殺害する等非常手段による政界一新の謀議を重ね、その実行準備として、川南は全般の企画の外、主として資金及び武器の調達、篠田、小池、時津、古賀、布沢、落合らは、同志の糾合等動員関係、現場調査等、安木、浦上、前田は主として自衛隊に対する協力要請等の工作、川下、老野生は篠田の指導下に国会突入主力部隊の事前訓練等を夫々担当することとし、右分担にもとづき、

一、川南において、同年九月上旬より十旬頃までの間に、東京都中央区日本橋堀留町一丁目十三番地株式会社広田商店等から、国防色作業服百着、中帽百個、ヘルメツト二百八十八個、防毒マスク百個、トラツク、ジープ各一台、移動無線車一台、ライフル銃二丁等を入手して前記自宅、市川市国分町千八百五番地三無塾等に準備保管した外、同年十月中旬、同都新宿区四谷一丁目二番地桜組工業株式会社等において、自衛隊用半長靴百足位の購入をはかり、又川南、小池らにおいて米軍関係等から挙銃、自動小銃、手榴弾等を入手すべく、同年十一月下旬頃から十二月七日頃までの間に数回に互り、同都新宿区須賀町九番地緑荘内の小池方等において、川南及び小池から元駐留軍要員野村繁造に対し、入手工作費等として合計五万円位を交付して、之が入手をはかり、一方川南において貿易商李樹森を介し、同年十一月下旬から十二月上旬に互り、名古屋市中村区島崎町一番地豊和工業株式会社からライフル銃、二三十丁の購入をはかり、

二、川南、篠田、小池、布沢、時津、川下、老野生らにおいて、同年九月下旬頃から十一月下旬頃までの間、前記川南方等において動員割当を行ない、川南工業株式会社保安課長川口義見らと謀り、同社創業三十周年記念名下に、九州方面からも同社従業員等二百名前後の動員をするため、これら動員者の滞在場所として、同年十二月八日から同月十二日までの間、東京都千代田区五番町一番地の六市ケ谷ユース・ホテル外一ケ所に計二百七十七名の宿泊契約をなし、

三、川南、篠田、小池、落合、安木、古賀、前田、布沢、時津らにおいて、昭和三十六年九月上旬から十二月上旬頃までの間数回に互に国会周辺の地形を偵察し、更らに国会議事堂内に立ち入り、議事堂内外の見取図を作成し、電源個所の調査等を行ない、

四、川南、小池、安木、浦上、前田らにおいて、同年十月初旬頃から、十一月下旬頃までの間、防衛庁、練馬、習志野、市ケ谷等の各陸上自衛隊駐とん部隊幹部、二佐高森信雄外三十余名を歴訪、或は招待して自衛隊の動向打診乃至協力要請をなし、

五、川下、老野生において、同年九月十九日陸上自衛隊柏射撃訓練場において、三無塾生七名と共に、射撃訓練を行ない、更に同年十二月五日から同月八日頃までの間、静岡県田方郡修善寺町大芝山県営達磨山キヤンプ場において、同塾生九名と共に同様射撃訓練をなし、

以て叙上の目的を以て殺人並びに騒擾の予備をなしたものである。」

というにあるが、

右公訴事実について、前田、浦上、時津、布沢に対する証明が十分でないことについて、判示を補足して説明する。

(一) 前田について。

(1) 前田は、本件について実行を共にする決意も固まらないまま、判示各行動をとつていた、と判断したが、その理由は次のとおりである。

前田が、昭和三十六年十月上旬南米開発に入社し、川南と日常を共にするようになつたのは、友人小池の紹介によつて、それまでの不本意な店員生活から脱け出ようとしたためであつて、本件計画に加わろうとしたためではない<証拠―省略>。このことは、前田が保釈出所後、小池に他意あつて南米開発入社をすすめたのかどうか、追及していることによつても明らかである<証拠―省略>。

(2) 入社後間もなく、川南らの企図を知つた前田は、そのときの心境を、ストライキに突入しようとしている集団に突然まぎれこんだ部外者が戸まどい、驚き、困惑している姿にたとえている<証拠―省略>が、これは、前田の実感であると思われる。かようにして前田は、昭和三十六年十月二十二日以後の判示諸行動に入るのであるが、この点につき同人は、検察官に対しては、共産革命ぼつ発の危険があるのに現在の政治のやり方をでは之を防げないと思つていた際、川南の話を聞くに及び、これに同調し手助けしようという気になつたのである旨供述し、これには終戦後の生活態度や父の死による虚無的な心境も原因となつている<証拠―省略>と述べ、公判におけるのとは、かなり異なる態度をとつている。

(3) 前田の川南を知るまでの終戦後の生活は、福島大学当時から昭和三十四年十二月一日、日共から除名されるまで約十年間偽装日共党員としてスパイ活動をしたことと、その後上京して、時計店等の店員をしていたことに要約できる<証拠―省略>。前田はその間、日共組織内の機密にも相当深く触れており、昭和三十一年日共第六回全国協議会における極左冒険主義を克服する運動方針転換についての理解も常人以上とみてよいし<証拠―省略>、その他日共の動向についての過去の体験にもとづく読みの深さも考えられ、川南の説く昭和三十七年三月の共産革命ぼつ発の危険感にたやすく同調したとは解せられない。また前田が川南の説く三無主義政策をもつて、共産主義にもとづく諸政策に対抗できると信じた形跡もない。

(4) 結局、検察官に対する前記の供述中問題となるのは、父の死による虚無感であるが、虚無感のおもむくままに、川南らの企図を容認して行動したとするには、さらに検討を要する点が多い。

前田には、川南、小池、安木らとしばしば会合を共にし、行を共にしていること、川南、小池の野村繁造に対する武器入手に一役を負つていること等、本件について嫌疑を受けてもやむをえないと思われる諸点がある。

しかし、仔細に検討すると、

先ず昭和三十六年十月下旬の前記湯島荘、島旅館、同年十一月下旬の福元旅館、同年十一月下旬から十二月上旬にかけての十二社温泉会館等における計画検討の諸会合、また同年十一月頃の渡津、小路らの自衛隊関係者、元海軍将校三上卓らとの諸会談においても、前田の発言はきわめて少ない<証拠―省略>点が注目される。もつとも右十二社温泉会館における前田の発言は、国会襲撃の武装勢力を専ら議事堂へ集中するという重大な計画変更を招いたもので、一見かなり重視されなければならないように思われるが、事の真相は、前田が川南の提案について、安木との間にかわした疑間的私語が川南にとりあげられたにすぎないである。<証拠―省略>また前田は、昭和三十六年十一月下旬渡津弘道と、同年十二月初め頃小路倶視と、単独で会つてはいるが、その会談内容は、同人らの実行参加を期待したものとは認めがたく、見方によつては、前田が小池、安木らとは立場を異にすることを渡津らに暗示しようとしたものとも解されるのである<証拠―省略>。なお前田は、同年十二月初旬、小池、川南が野村繁造に依頼して武器入手を計つた際、武器入手費用として現金を二回にわたつて、野村に交付しているが、これらは、いずれも川南、小池のための代行であつて、自己独自の責任に出たものではない<証拠―省略>。

その他前田の判示各行動の大半は、南米開発の社員としての立場上、川南に随行した結果避けられなかつたものや、好むと好まないとにかかわらず、同人の指示に服従せぜるをえなかつたもので<証拠―省略>、この点については、当時前田が川南から相当多額の給与を受けながら、他に何ら仕事を与えられていなかつた事情も考慮する必要がある<証拠―省略>。なお前田は、すでに同年十月中に、安木に対し、自分は小池とは考えを異にするともらし、同人らの企図を容認していないことを暗に告白している事実もあり<証拠―省略>、同年十二月初め頃には、梅田康之と会談し、川南らの企図につき手厳しい批判を加えている<証拠―省略>。

(5) 以上の諸点から見ると、前田は、川南らの共産革命の危機感と見る所を異にし、その企図を容認していなかつたにかかわらず、自らは南米開発社員として他に何の仕事も与えられなかつたうえ、月々相当の給与を受けていた立場上、川南の意に服し、前記行動に出たが、それは外形的なものに止まると認められる点が多分にあり、その間父の死による虚無感が影響していないとはいいがたいが、そのために川南らの企図を容認し、すべてを成り行きに任せたとは到底考えられない。

(6) ただ最後に一言しておかなければならない点は、前田が司法警察員、検察官に対し、はつきりした自供をし、「監房雑感」と題する手記まで残し、右自供が任意に出たことを何ら争おうとしていない点である。当時の心境は、前田の公判供述によると、とにかく外形的には犯罪の嫌疑を受けるような行動に出ていたという自己に対する厳しい道徳的な反省、偽装日共党員というような暗い生活を清算し、平和で平凡な一市民として生きようと強く望んでいた矢先、事もあろうに非合法活動に引き入れられてしまつたということに対する自嘲、旧陸士同期生の他の被告人らや、川南らから、さらには、取調官からさえ、非人間的なスパイ行為者と誤解されるのではないかという不安に対するたえがたい苦悩等がからまり合つて一部真意に反する自供をあえてしたというにあるが、この点は、その過去の経歴、その間の人間的苦斗、法廷における率直な供述態度からみて一概に排し去ることはできないと思われる。

結局、前田については、犯罪の嫌疑は多分にあるが、その実行意思の存在を認めるには、なお多くの疑点があり、犯罪の証明が十分でないとせざるを得ない。

(二) 浦上について、

(1) 浦上が、湯島荘をはじめ、福元旅館、十二社温泉会館における諸会合に出席し、あるいは旧陸士同期生らと会談する等本件に関連ある諸行動をとつたことは、すでに判示したとおりである。

そこで、浦上が実行の決意が固まらないままに、判示のような行動に出たとの当裁判所の判断を説明する。

浦上が本件計画の具体的内容を最初に知つたのは、湯島荘会合のあつた昭和三十六年十月二十二日頃であることは、自らも認めるところである。浦上は、右の計画の実行に参加する意思は全くなかつたと、本件審理を通じて主張するが、捜査官にはこれを肯定しているとみられる点がある。すなわち、浦上の昭36.12.20.21検供第二十四項には、「私はこの日(昭和三十六年十月二十六日を指す。)小池と話している間に、……何か感覚的に……十二月には共産革命の時期が迫り、物情騒然となるであろうと感じ、その際に事を起すのは絶対必要な事であると確信的に考えた」旨の記載がある。この供述記載につき、浦上は、同年十二月における共産革命のぼつ発と同時または事後における物情騒然たる状態に際し事を起こす場合を頭に描いて供述したことが、誤り記載されたというが、取調に当つた証人金吉聴は、浦上の右の自供は取調官さえ意外に思つたほど印象深いもので、用語も浦上の表現そのままに近い旨供述していること、浦上が容易に他人に届服することのない性格なのに右供述調書の記載について訂正申立もしていないこと等からみると、そのいう所は直ちには認めがたい。しかし、その後、同人に本件に関わりのある動きが約一月にわたつて全く認められない点からみると、前記の供述記載は、小池との会談の際に、その憂国の情、気魄等に圧倒されて起こつた一時的な感動ないしは、共感の告白で、本件実行の決意とみられるほどの持続的なものではなかつたのではないかとの疑いもあり、他の諸情況との関連を検討しなければ、その真意を補捉しがたい節がある。

(2) 浦上の同年十一月二十日の「たか井」における渡津、小路らとの判示会談をみると、まず浦上の出席は、小池の呼びかけによるもので、しかも遅参したことが明らかで、消極的態度がうかがわれる。ところで、右会談では、同席した小池、安木、前田らから、渡津、小路両名に対し、自衛隊の左翼暴力革命に対する対応能力等についての質問、小池の武器貸与を求める発言があつた後、浦上から「単刀直入にいえ」とか「この前話したというが話してないじやないか、時期尚早だ」とか等の発言があつたものと認められる<証拠―省略>。浦上昭36.12.21検供には、この会合は自衛隊の飛出し部隊確保が目的であつたという供述記載があるが、浦上が、この会合の前に、小池らから、渡津、小路に対する計画参画説得工作の企てのあることを話されていた形跡はないし、発言を促す「単刀直入にいえ」ということと、発言を抑えるとも受け取れる「時期尚早だ」ということとは、どうやら矛盾を免れない内容のようである。しかも、この発言は、相当酒がまわつてからされたもので、かつ、渡津らに対するものでなく、結局その真意を捕捉することは困難である。もつとも前記検察官調書には、浦上が会談の帰途安木と、「今日の話し方はまずかつた」と語りあい、自らも事は三分位は破れたと思つたという記載があるが、これまた、他の情況を検討しなければ、浦上が、自ら渡津らを説得する意思であつたと断定するには足りないと思われる。

(3) 浦上は、同年十一月二十五、六日の福元旅館の会合では、川南による判示動員部隊の指揮者の割り振りに対し、道路遮断部隊の指揮を引き受ける旨の発言をし、また参加者を輸送するトラツクの責任者は定めないのか、と川南に質問している<証拠―省略>。これらの点について、浦上は、道路遮断部隊の指揮は小池に促されて、軽い気持で引受けるといつたのであるし、トラツクの責任者についての質問は、むしろ川南の独善的放談をやゆしたのであるというが、証拠によると右会談においては、盗聴等の防止について細かく見廻る等の注意が払われ、同日検討された所に対応する一部の下準備も、その後に行なわれているなど、そのふんいきは必ずしも浦上のいうようなおざなりのものとは受け取りがたいし、人生経験豊かな川南が浦上らにほんろうされていたとも思われない。少なくとも招かれて出席した者として、それなりの節度を守つた応答質問であつたと認めざるをえない。しかし、これらの発言もまた、他の諸情況の検討を待たなければ浦上の実行参加の意思の現れであるとするには十分でない。

(4) 思うに、浦上の本件に関する一連の行動を全体的に観察すると、浦上が、他の被告人らと異り、川南に何ら金銭的期待をもたず、一貫して、教職を第一義の道として固く守つて、独自性を崩さなかつたことは、まず同年八月下旬頃、川南から、教職を退いて、同人の援助で塾を開きこれを運営するようすすめられたとき、言下にこれを断つていること、次に湯島荘会合の際、川南から、引続き二、三日学校を欠勤して会合に加わることを求められてもこれに応ぜず、さらに同年十二月二、三日の同僚教員との旅行会にも、本件では比較的重要視される十二社温泉会館の会合前後の緊迫情況をさしおいてまで、参加していること等から明らかであつて、本来の教職を抛ち、法を破り、生死の危険をおかしてまで、本件実行に参加する決意であつたとは認め難い。またその合理性を重んずる性格、その蓄積した教養の程度等から見て、昭和三十七年三月頃の左翼革命を必至であると考えていたとは思われないし、川南の説く三無主義政策に深く傾倒していたと考えることも困難である。更に何にもまして浦上には、前記「たか井」における渡津らとの会談以外には、下準備的行動が皆無に近い。以上の諸点は浦上の実行意思を多分に疑わせるものといえる。

要するに、浦上については、先に指摘した三点を中心とする嫌疑以外に、同年十二月一日および四日の十二社温泉会館における会合にひきつづき出席していること等の事情もあり、相当の嫌疑をまぬかれないが、本件に関連する浦上の言動を証拠上うかがわれる同人の性格、考え方、生活態度等との関連において、全体的に考察すると、浦上が川南らの計画に同調する意思で行動していたとの点については、十分な確信をもつたことができないので、結局証明不十分であると判断した。

(三) 時津、布沢について。

(1) 時津、布沢が、本件に関連して、判示の諸行動をとつたことは、すでに認定したとおりであるが、右は、真の実行意思を伴わない、外面的な行動に止まるとした当裁判所の判断を補足説明する。

(2) 時津、布沢が衰亡にひんした川南工業の再建のため、川南、篠田らと苦難を共にした間柄であること、本件当時時津が川南工業長崎工場の労務課長、布沢がその庶務課長であつたこと、川南、篠田が当時なお川南工業で実権をふるつていたこと、更に川南、篠田が実力行動の中核として、川南工業従業員の動員を重視していたこと等は、すでに判示したところである。

これらの事情を前提として時津、布沢の言動を検討すると、まず布沢は、昭和三十六年九月中旬、川南工業の社用で上京し篠田と会談した際、早くも同人の言動を不穏と感じ、その際、川南工業従業員を実力行動に動員しようとする意図に対し、批判を加え<証拠―省略>、その後、長崎へ帰つて時津らに篠田の意向を伝えるに当つても、同人の不穏な言動を憂えてこれをあいまいな表現に託し<証拠―省略>、同年十月初旬頃には、川南工業の上司で、川南の従兄弟にあたる川南秀造に対し、川南らの不穏な言動を耳に入れ、万一の場合の抑止策を依頼しているのである<証拠―省略>。ついで時津、布沢は、判示のとおり、昭和三十六年十月十一日頃から同月十六日頃まで上京逗留中に、主として篠田から本件計画を聞き、川南工業従業員の動員、挙銃の入手を暗に依頼されたが、これに対し、時津はその計画の実現について疑問をいだき<証拠―省略>、あるいは内心これを政治テロにも似た非合法なものとして怪念し<証拠―省略>、布沢は、篠田に対し、動員費用調達の困難な点等をあげて疑問をうつたえ<証拠―省略>、同行した川口義見、田中清満らと共に、当初は篠田の要請に思案に余つた態度であつた<証拠―省略>、しかし時津も布沢も、結局、篠田の気魄に圧倒されて、その要請をはつきり拒否する態度に出られなかつたとみられる事情が観取される<証拠―省略>。

この直後、時津は西一に判示のような上京従業員の人選をさせたのであるが、当時の時津には、篠田の気魄に圧倒され、同人との特別な関係、自己の会社における立場等からも、篠田の動員要請に全く無反応であることに徹し切れず、表面を糊塗し、外見を整えようとして、とりあえず、右の程度の動きを示したとみられる余地が多分にある。このことは、人選をさせた人数が要請よりかなり少ない十名前後にすぎないうえ、これを布沢らにさえ秘していること、その頃布沢らと打合わせて主な従業員を直接篠田に会わせ、自分らはつとめて責任をさけようとしていたこと、また同年十月二十日頃、篠田らに呼ばれて再度上京する直前、長崎で村山格之に会つた際、川南らの実行気構えに対する不満を困惑の情をこめて素朴な表現で同人に語つていること<証拠―省略>等の情況からも推認される。

(3) 時津、布沢は、同年十月二十二日から二十四日頃まで上京中、篠田から前同様の要請をうけて、判示のような同調的態度をとつているが、その際布沢は、川南に面と向つて、川南工業従業員の動員は得策でない趣旨の発言をし<証拠―省略>、川南から同月末の決行延期を告げられるや、時津と顔を見分せ安堵の胸をなで下ろしていること<証拠―省略>、その直後時津、布沢は、長崎に帰つてからひそかに川南らの決行気構えを困つたものと嘆じ合い、布沢は、度重なる資金の催促に困惑の態度を示し<証拠―省略>、また、同年十一月中旬篠田から三十万円の調達されたとき、これが本件企図の資金であることを知りながら、一度は強硬に断つていること<証拠―省略>等のほか進んで時津、布沢が他に動員の手配をした動きや、動員に備えてその費用の調達につき配慮した様子もなく、むしろ川南、篠田の費用の調達につき配慮した様子もなく、むしろ川南、篠田の大きな期待に反し、何事も同人らから具体的に指示されるまでそれに手をつけようとしなかつたとみられる点が多く、時津、布沢が本心から川南らと実行共をにしようと決意していたと認めるには多くの疑いがある。

(4) 布沢は、昭和三十六年十二月初め頃、判示のように田中清満の拳銃探しの旅費を支出しているが、これも川南の再三の催促をかわしかね、拳銃入手の成否は問題外にして、ただ川南に対する報告の責を果たすのが目的であつたとの疑いが強い。そのことは、田中が長崎に帰つてから布沢に対し、知人に申し込んで置けば拳銃入手の目当てがある、といつたのに対し、何ら反応を示さなかつた情況からも、推測するにかたくない<証拠―省略>。また時津は、判示のように昭和三十六年十二月四日の十二社温泉会館、翌日の第一ホテルの会合に出席しているが、これは、社用で上京した際たまたま川南らに同伴させられたもので、発言等にも注目すべきものがなく、その頃、時津がユースホステルの所在等を手帳に記入したのも、篠田の他の連絡事項をメモするのと同程度の気持と見られる点が否定できず、いずれも本件実行の意思に基くものとは、前述する諸情況からも認め難い。

なお、時津、布沢の検供のうちには、川南らの計画に対する不審な点を挙げつつも、実行参加の意思はあつたと述べている点が散見されるが、以上挙示した各点とも関連させて考えると、これをとつてただちに実行意思認定の資料とするのは困難と思われる。

(5) 要するに、時津、布沢についても相当の嫌疑はまぬかれないが、同人らに実行の意思を認めるには疑点が多く、結局証明が十分でないと結論せざるをえない。

(当事者の主張に対する判断)

一、違憲の主張に対する判断

(一) 破防法第三十九条及び第四十条は、罪刑法定主義に反し、かつ言論、集会の自由を侵害する違憲な規定である、すなわち、同法第三十九条は、刑法の規定に対して「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し又はこれに反対する目的」をもつた殺人の陰謀に処罰の範囲を拡張し、又かような殺人の予備について刑罰を加重し、同法第四十条は、右同様の目的をもつた騒擾の予備及び陰謀に処罰の範囲を拡張しているのであるが、右規定は、構成要件から主観的要素を排除することを要請する罪刑法定主義に内在する原理に反して、前記政治的目的をその構成要件の一部としているうえ、その政治上の主義あるいは施策という概念は、明確かつ確定的な定義を与えることができないため、犯罪の成立範囲が極めてあいまいである。しかも右破防法の右規定は、具体的法益の侵害をまつて処罰原因とし、あいまいな行為を可罰対象としないという罪刑法定主義に内在する原理を歪曲し、予備及び陰謀というこれまた不明確な、あいまいな行為を処罰の対象としているのであつて、右各規定は憲法第三十一条に違反する規定と解すべきである、又不明確な主観的目的とあいまいな予備又は陰謀という行為とを結合して処罰の対象とする右規定は、思想の自由を侵害し、民主主義の基本をなす言論、集会等表現の自由を不当に抑圧し、民主主義の正しい発展を阻害するものであるから、憲法第二十一条にも反する規定である、との主張について(吉田弁護人)。

(二) 犯罪の構成要件が、明確な表現で規定されなければならないことは、罪刑法定主義の要請であるが、あらゆる犯罪の構成要件を客観的、記述的要素だけで規定することは、複雑な社会事象あるいは人間行動に対処する必要上不可能であり、構成要件が、ある程度規範的要素あるいは主観的要素を含むことは避けることができず、主観的要素を含むからといつて当然に罪刑法定主義に反するとはいえない。問題は主観的要素をふくむ規定を「解釈によつて」明確に客観化できるかどうかにある。

破防法第三十九条及び第四十条の「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し又はこれに反対する目的」については、規定の仕方に望ましいと思われない点があり、立法政策上批判の余地が多いといえるであろうが、通常の用語例、立法者の意図等によつて一応の定義を下すことは十分可能であり、具体的事案への適用にあたつて、判断者の主観によつて著しく左右されない程度の客観性は保持されていると思われる。これ以上の客観性、明確性は判例の集積に期待するほかはない。また予備、陰謀の概念は、刑法上のそれを基本にして考えればよいと思われるので、それほど問題にする必要はないと考える(この点は後に詳述)。両者をあわせ考えても、異なる結論に導くとも思われない。

(三) 言論、集会等の自由は、国民の自治の原理にもとづく民主制度の基礎をなすものであるから、言論、集会等の自由の抑圧を正当化するためには、その言論、集会に、それに制限を加えることから生ずる危険を明白、かつ、疑いをいれない程に浚駕するような社会公共の利益に対する直接かつ、緊急の重大な危険(いわゆる「明白かつ現在の危険」)が存在することが必要である、と解すべきことは、弁護人所論のとおりである。

しかし、破防法第三十九条及び第四十条は、いずれも、政治的目的をもつて実現しようとする殺人及び騒擾の予備あるいは陰謀を処罰の対象としているもので、政治的目的をもつてする騒擾はもとより、政治的目的をもつてする殺人は、かような目的を伴わない騒擾、殺人と異なり、社会公共の利益に対する重大な侵害であるから、右規定をかような侵害の危険が直接かつ差し迫つて存在する場合だけに関する規定と解する限り前記「明白かつ現在の危険」の原則に反するものということはできない。

(四) 以上の理由で、結局破防法第三十九条及び第四十条の殺人及び騒擾の予備あるいは陰謀を処罰する規定は、憲法第二十一条及び第三十一条に違反する規定ということはできないので、弁護人の前記主張はいずれも採用しない。

二、三無主義政策について、

(一) 破防法第三十九条、第四十条にいう「政治上の主義」とは、たとえば資本主義、社会主義、共産主義、議会主義、無政府主義等のように政治によつて実現しようとする比較的に基本的、恒常的、一般的な原則を意味し、「政治上の施策」とは、政治によつて実現しようとする比較的に、具体的、臨時的、特殊的方策、つまり特定の歴史的、社会的、経済的、文化的、諸情況に即応する方策を意味するものであり、また「政治」とは、国家意思の形成ないし決定と、その執行の基本的指導という公的組織の作用をいうものと解される。

(二) 三無主義政策は、判示のような相当詳細な内容をもつたもので、前記の定義に従うと、「政治上の主義」とは認められないが、「政治上の施策」にはあたると解される。なぜならそれは、「政治」によらなければ実現できないことが明白であり、また資本主義を前提として、川南の立場からみた現在の社会的矛盾を川南なりの方法で解決しようと構想した具体的方策(空想的要素が多く実現困難であろうとはいえようが、その全部が実現不可能とはいえない。)であるからである。しかも、本件では、判示のとおり、同政策を基本としつつも、左翼勢力に対する方策等をふくむより広い具体的施策への反対あるいはその推進を目的としていたと認められるので、弁護人の主張は採用しない。

三、本件を騒擾および殺人の予備でなく、陰謀であると認めた理由。

(一) 検察官は、被告人らの本件企画及びそのための準備行為は、破防法第三十九条の殺人の予備及び同法第四十条の騒擾の予備に該当するものであるとし、その理由として、いやしくもクーデターの実行を可能又は容易ならしめる程度の危険性のある行為があれば予備として十分であり、被告人らの実行計画は、決行時期を昭和三十六年十月末、同年十二月九日、ついで昭和三十七年一月を目標に長期にわたつて練られた具体的なものであり、実行準備は逐次その内容に従つてすすめられ、戒厳司令官等を定め、兵力の配備やその指揮者を決定し又ライフル銃二丁を入手し、その他の武器については入手を図り、あるいは入手方法を検討したことがあり、兵力も比較的少数ではあるが、奇襲作戦、人質戦術等を考慮したのであつて、その計画、準備等は現実的かつ具体的であり、クーデター決行の危険性が顕著に切迫していたことは明白であると主張し、これに対し弁護人は、破防法第三十九条、第四十条所定の殺人騒擾の予備、陰謀、教唆罪はいづれも成立しない、と主張する。そこで、右両当事者の主張についての当裁判所の判断を示すこととする。

(1) 一般に「予備」とは、「犯罪の実現を目的とする行為で、その実行に著手する以前の準備的段階にあるものをいう」と解されているが、犯意実現のためのすべての準備的行為が「予備」とされるわけではなく、おのずからそこには一定の限界がある。この点は、判例、学説によつても、明示的あるいは黙示的に、ほぼ承認されているところと思われる。(たとえば、殺人の目的で兇器を購入することはその予備と解されるが、単に金物店等で兇器を物色する程度では、たとい同様の目的からにせよ、未だ殺人の予備とはいえないであろう。いわんや、単に殺人の際の変装具をあらかじめ用意するだけでは、その予備にならないこと勿論である。)

どの程度の準備が整えられたときに「予備」となるかについては、判例の見解は必ずしも明瞭でなく、学説もわかれており(学説は、「予備」について「犯罪実現を指向し、しかもいまだ実行の著手に至らざるもの」とか、「遠い未遂」とか、「結果惹起のための条件を設定し、実行々為を容易ならしめる行為」とか等抽象的に説くものと、「特定の犯罪のために危険な道具を準備するところに予備罪が成立し、またそれほど具体的にならなければ予備行為は存しない」とか、「物的な準備手段を講ずること」とか等、やや具体的に論ずるものとに大別されるが、各学説が挙げている例をみると、前記の例示の結論は承認されそうであるし、またこれらの説は、つぎに説く見解ともそれほど隔るところはないようである。)準備の方法、態様についても制限はないが、いやしくも「予備」を処罰の対象とする以上は、罪刑法定主義の建前等からいつても、予備行為自体に、その達成しようとする目的(いわば、本来の犯罪の実現)との関連において、相当の危険性が認められる場合でなければならないと考える。詳言すると、各犯罪類型に応じ、その実現に「重要な意義をもつ」あるいは「直接に役立つ」と客観的にも認められる物的その他の準備が整えられたとき、すなわち、その犯罪の実行に著手しようと思えばいつでもそれを利用して実行に著手しうる程度の準備が整えられたときに、予備罪が成立すると解するのが相当である。

「予備」として判例で認められた事案あるいは裁判上遭遇する事例は、おおむねこの程度の要件は備えており、右のように解しても、実際上それほど不都合はきたさないと思われる。

(2) 破防法第三十九条、第四十条にいう「予備」の概念は、刑法で用いられている「予備」の概念を基礎に規定されたものと解されるが、刑法上の予備の概念についての判例の見解が明確を欠き、学説がわかれている現状においては、破防法成立の過程、同法第二条の趣旨等にかんがみ、同法にいう「予備」については、その範囲をできるだけ厳格に解すべきである。したがつて、同法の適用にあたつては、特に、予備罪の成否についての前記の判断基準を堅持し、具体的事案に則し、真に妥当な結論を導くように配慮する必要があると思われる。

(3) 本件においてまず問題となるのは、多数の武装勢力で開会中の国会を急襲し、附近を騒乱状態におとしいれるという騒擾罪についてであるが、同罪は集団犯罪として特殊な性格、構造を有するものであるから、その予備罪の成否についても、特に慎重な考慮を必要とする。いうまでもなく騒擾罪は、「多衆聚合して暴行脅迫をなすこと」によつて成立するが、判例によると、更に「暴行脅迫は、多衆と共同し、その衆合の威力を頼んで行われたものであること」(大判大四・一〇・三〇)「一地方における公共の静ひつを害すること」(大判大二・一〇・三)が要件とされている。かように騒擾罪の成立要件はかなり複雑であるが、現実には、微妙な群集心理的要素の働く余地が多く、一層複雑となる。では、どの程度の準備が行われたとき、その予備といえるのであろうか。騒擾罪の実体を掘りさげ、現実に行われた準備との関連を考えながら、前記の基準に照らして、やや詳細に検討することとしよう。(破防法第三十九条、第四十条の同一条文内の犯罪類型のいずれに当るかを重視するのは、破防法自体がその適用に厳格な態度を要求しているばかりではなく、刑の量定についてその判断の基礎となる「犯情」に影響するところが大きいと思われるからである。)

(4) 騒擾罪が成立するには、単に個人的な暴行、脅迫が行われるだけでは足りず、それが集団のもつ威力を背景とし、あるいはこれと合一して一地方の公共の平和、静ひつを害するに足りる危険が招来されることを必要とする。したがつて、個人的な暴行、脅迫が全く集団と無関係に行われるとき、あるいは集団自体が暴行、脅迫に赴く要素を全く欠くときは騒擾罪の成立は否定される。要するに、騒擾罪においては、まず集団のもつ力が決定的要素をなすことに注目する必要がある。

(5) 騒擾の成立過程ないし形態は、およそ次の二つの類型に大別される。

第一は、最初から相当組織化された集団があり、この集団による暴行、脅迫を計画して騒擾に至る場合(たとえば、やくざの喧嘩)でその集団行動には、通常特定の指揮者、あるいは共通の目標、内部規律等が存し、これらに背き、反するものは、何らかの形で制裁や心理的圧力を加えられる場合、第二は、集団形成の際には、暴行、脅迫の意図はなかつたが、多数人が、ある時期に、ある場所に集合し、身体的に互いにふれあうような情況になることによつて、その間に特有な心理状態が生れ、これに何らかの外部的刺戟が加わることによつて共通の意識感情が醸成され、共通の目標に向つて暴行、脅迫に及ぶ場合である。

いずれの場合も、集団の構成員は、多かれ少なかれ、独立性を失つて特有な心理状態におちいり、無名性、無責任性、衝動性、興奮性、暗示性等によつて表徴される、いわゆる「群集心理」に支配されるのを特色とする。

(6) 第一の類型の場合には、騒擾罪の成立に必要な多衆の者(人数に制限はないが、一地方における公共の静ひつを害するに足りる暴行又は脅迫をするのに適当な多人数であることを要する。)の間に、あるいは集団の指揮者(特に旧軍隊におけるような絶対的権威をもつ指揮者)の間に、集団行動の目的、方法、時期、場所等について具体的な合意が成立するだけで騒擾の予備罪が成立することもないとはいえないが、第二の類型の場合に騒擾の予備罪が成立するためには、騒擾を企図し、あるいはこれを認容する少数者の間で、集団形成の計画を立てたり、武器、装備を用意したり、構成員のための宿泊所を予約したり、説得者、扇動者を定めたりするだけでは十分でなく、集団そのものの形成のための一層直接的、具体的な行為、たとえば、集団の構成員となるべき多数の者を目的の場所に輸送する等、必要に応じてこれらの者を速やかにある目的に向つて動かしうる現実的事態を招来する必要がある。なぜなら第二の場合は、多数の者が身体的に互いにふれ合うような情況にあることを前提とするのであるから、多数の者が未だ集められず、必要に応じ速やかに目的地に至りうるような情況が現出されないかぎり、騒擾罪の実現に「重要な意義をもつ」あるいは「直接に役立つ」客観的準備が整えられたとは到底考えられないからである。

(7) 本件が第二の類型に近いものであることは明らかである。なぜなら本件動員の中核隊に予定されていた川南工業の従業員、三無塾生の大多数は、かつて川南に対し経済的従属関係にあつたか、あるいは当時川南、篠田から若干の経済的恩恵を受けつつあつたか、いずれかの関係しかもたず、川南、篠田の命令一下危険な行動に赴くような関係になく又右の者らの間に前記のような具体的合意が成立していたとも認められないからである。ところが、犯行予定地からはるか遠隔の地にある川南工業の従業員に対しては、川南、篠田から、時津、布沢を通じて一方的、部分的人選がされた程度であり、未だこれらの者を、必要に応じ速やかに目的の場所に動員しうるような態勢はつくられていなかつたのである。(九州の田中、牛島等に対する動員依頼は、川南工業の従業員に対する程度にすら具体化されていなかつた)又野呂による映画エキストラ名目のアルバイト学生の動員は、これらの学生が、昭和三十六年十月二十六日中央大学構内に集められる前に、決行予定日が同年十二月に変更されており、ある目的のために動員されたような関係ではなかつた。更に自衛隊関係者に対する働きかけは、自衛隊の動向、訓練状況等を打診し、あわよくば同調を期待するという程度を出なかつた。その他動員関係で問題になるようなものはない。かりに本件を第二の類型にあたるものとし本件被告人ら少数の者が武器をたずさえ、開会中の国会を急襲するという事態を考えてみても、人数はあまりに少なく、利用しうる銃器は二丁にすぎず、国会付近を騒擾状態におとしいれるに足りるような客観的態勢、準備が整えられていたとはいえない。ヘルメツト、防毒面、作業衣、トラツク等の準備、ホテルの予約等は、騒擾の中心となるべき「多衆」の成否を判断するについて影響がないとはいえないし、「多衆」への現実的把握、支配が完了している場合には、これと合して騒擾の予備を構成することになるのであろうが、それだけでは、未だその予備にあたらないと解すべきである。

(8) すでに明らかにしたとおり、兇器をもつてする殺人の企図については、その兇器を現実に入手し、またはそれと同一視される情況がない限り、殺人の予備が成立すると認めることは困難であるから、本件において田中、野村、李等に対し、拳銃、ライフル銃等の入手を依頼した行為は、いまだ殺人の予備とは認められない。なお本件においては、判示のとおり、被告人らは、騒擾行為を前提とし、その過程で人の殺害もありうると予想し認容していたと認められるので、騒擾が前記のとおり予備の段階に達していないと認められる情況のもとでは、それと切りはなし、殺人の予備の成立を認めるのは不自然なように思われる。三無塾に保管されていた銃二丁については、理論的に若干問題はあるが、これらの銃は、本件陰謀が、いまだ法的に成立すると認められない時期に、川下、老野生が篠田らの意図も十分知らないで預り、あるいは購入したものであること、その後行われた本件各謀議の席でも、右の銃のことが話題にのぼつた形跡がないこと等の情況に、前記騒擾と殺人との関係をあわせ考え、綜合的に検討すると、右の銃二丁の保管だけを殺人の予備とするのは、やはり相当でないと思われる。

要するに、本件は、理論的には、騒擾および殺人の予備と解する余地もないわけではないが、先に明らかにした理由で、予備についても厳格な立場をとり、騒擾および殺人は、いまだ予備の段階に達していないと判断したわけである。

(9) 破防法第三十九条、第四十条の殺人および騒擾の陰謀とは、二人以上のものが、これらの罪を実行する目的で、その実現の場所、時期、手段、方法等について具体的な内容をもつた合意に達し、かつこれにつき明白かつ、現在の危険が認められる場合をいうと解するが、明白かつ現在の危険を伴う陰謀とは、その目的とする犯罪が、すでに単なる研究討議の対象としての域を脱し、きわめて近い将来に実行に移され、または移されうるような緊迫した情況にあるときと解される。このような情況の存否は、陰謀の対象とされている犯罪の種類、性質、陰謀の内容の具体性の程度、陰謀の時期と計画実行の時期との関係、陰謀者の数と性格、その実行の決意の強弱、陰謀が行われる際の社会情勢等を考慮し、綜合的に判断して決するほかはない。陰謀実現のための下準備的行為は、明白かつ現在の危険を伴う陰謀にとつて不可欠の要為とはいえないが、実際的には、陰謀がこの段階に達するまでには、何らかの下準備が行われているのが通例で、結局多数者による予備との相違は、準備の進行情況の差に帰せられることが多い。本件は、まさにかような場合で、いまら騒擾および殺人の予備とは認められないが、それに近い緊迫した情況にあつたといえる事案である。

(10) 弁護人らの指摘するとおり、今日から考えると、被告人らの計画にはずさんな点が多く、気持だけが先走つて足が地についていないような面もすくなくなく、かりに実行に移されたとしても、成功するかどうかについては相当の疑問をまぬかれない。しかし、本件の陰謀が成立すると認められる昭和三十六年十月十二日頃から同年十二月初め頃までの間には、計画実現の時期がきわめて近い将来に予定され(この時期は、最初は同年十月末と予定されていたが、その後同年十二月上旬、翌年一月中旬と二度変更された。)その実現の方法が具体的に事細かく論じられ、しかもこれに即応する下準備として、計画実現に必要な人員、武器、装備等の調査、収集のための工作が行われ、装備等の一部がすでに入手されていたこと、本件の一、二年前から大規模な大衆的示威運動がつづき、その間に社会の耳目を集めた国会乱入等の事件や要人へのテロ行為事件が発生し、なおその余じんがくすぶりつづけ、社会、人心がかなり不安な状態にあつたこと、被告人らが、当時翌年三月頃には左翼革命が必至であると信じ(信じ方には、多少の強弱はあつたが……)真剣にその対策を考えていたこと、被告人らがいずれも単なる口舌の徒でなく、相当の信念と気魄と実行力とを有する人物(特に川南、篠田、小池の指導力、企画力、影響力には軽視できないものがある。)と思われること等の諸情況を考えると、本件計画がきわめて近い将来に実行され、またはされうる緊迫した情況にあつたことは疑いないと思われる。以上の理由で、本件については、昭和三十六年十月十二日頃から同年十二月初め頃までの間に明白かつ現在の危険を伴う、騒擾および殺人の陰謀が成立すると認めざるをえない。

(11) 判示期間内に行われた各会合中、前示計画実現のための具体的方策が検討されたものは、これに対応する下準備行動等によつて表明された各人の同調意思と相まつて、一応それぞれ陰謀罪を構成すると思われるが、これらは、結局大きな流れの中の一部であつて、包括的に一個の陰謀罪を構成するものと認められる。(昭和三十六年十月十二日の篠田の時津、布沢らに対する言動は、一見破防法所定のせん動あるいは教唆に該当するようにみえるが、本件においては、事をかように分析的論理的にみ、篠田の言動にせん動あるいは教唆という独立の地歩を与えるのは妥当ではない。篠田の言動も、本件陰謀という大きな動きの中の一こまとしてその中に吸収されると解すべきである。)また陰謀罪の性質からみると、いやしくも明白かつ現在の危険を伴う段階の陰謀に加担したものは、その陰謀がなおつづいている間に、途中でかりに実行の意思を失つても、すでに生じた責任を免れることはできないと解される。したがつて途中で実行の意思がうすらいだ程度の川下、老野生、安木らが本件の責任をまぬがれることができないのは、いうまでもないことである。

(12) 「殺人および騒擾の予備」としての訴因をその陰謀と認定することは、同一条文のもとにおける変更にすぎず、しかも事の性質上、被告人らの防禦に重大な影響を及ぼすおそれはないと認められたので、訴因変更の手続を要しないと判断した。

第二、川南の関税法並びに外国為替及び外国貿易管理法(以下外為法という)違反各被告事件について≪省略≫

(法令の適用)

川南の判示所為中、破防法違反の点は、同法第三十九条(刑法第百九十九条)、第四十条第一号に、関税法違反の点は同法第六十七条、第百十三条の二、第百十七条、刑法第六十条に、外国為替及び外国貿易管理法違反の点は同法第四十八条、第七十条第二十一号、第七十三条、輸出貿易管理令第一条、刑法第六十条に、各該当し、破防法違反の所為は、一個の行為で二個の罪名にふれる場合であるから、刑法第五十四条第一項前段第十条により、重い破防法第三十九条違反の刑に従い、各罪につき所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文、第十条により最も重い破防法第三十九条の罪の懲役刑に併合罪の加重をした刑期内で、川南を主文の刑に処し、刑法第二十一条により、未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入し、その余の被告人らの判示所為は破防法第三十九条(刑法第百九十九条)、第四十条第一号に該当し、右は一個の行為で二個の罪名にふれる場合であるから、刑法第五十四条第一項前段第十条により重い破防法第三十九条の罪の刑に従い処断し、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で、それぞれ主文の各刑に処し、篠田、小池に対しては、刑法第二十一条により、未決勾留日数中二百日を右各本刑に算入し、安木、川下、老野生、古賀、落合に対しては、情状により刑法第二十五条第一項を適用しそれぞれ本裁判確定の日から二年間各刑の執行を猶予し、訴訟費用の負担につき、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文(個々の負担以外の費用の負担につき、さらに同法第百八十二条)を適用する。

なお、前田、浦上、時津、布沢については、前記の理由で、犯罪の証明がないときにあたるので、刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をする。

(量刑の事情)

(一) すでに判示し説明したところからも明らかなように、本件には幾多の特色がある。たとえば、被告人らの性格、考え方等にはかなり大きな相違がみられ、その共通点としては、被告人らが、共産革命は絶対に許せない、日本の歴史と伝統はあくまで尊重すべきであるという信念をいだき、この観点から、左翼の言動とこれに対する当局の態度に強い不満をいだいていた点くらいであること、被告人らの間には、血盟的誓約も、強い命令服従的関係もなく、その団結はそれほど固かつたとは思かれないこと、本件は川南、篠田、小池の三名を中心に推進されたものといえるが、その中でも川南の影響力は特に大きく、同人の経済力、構想力、人間的魅力等がなければ、本件は考えられなかつたであろうと思われること(川南以外の被告人は、直接あるいは間接に、多かれ少なかれ、川南の経済的恩恵に沿していた。)、被告人らの中には、小池のように、時に過激な言辞を弄するものもあつたが、いずれも、軽々しく個人的テロ行為に及ぶような狂信の徒とは考えられないこと、むしろ被告人らの多くは、個人としては、相当の知識、教養を身につけた社会有為の材とみられること、しかし、被告人らの本件当時の心理心境は、今日再現することが困難と思われるほど、思いつめ、興奮した状態にあつたと思われること(ただし、川下、老野生は判示のとおり、昭和三十六年十月下旬頃から、安木は、同年十一月下旬頃から、かなり熱もさめていたようである。)、この背後には、本件一、二年前から国会乱入事件、羽田事件、要人へのテロ行為等が相つぎ、これに経済的困難等がからんで社会人心がきわめて不安定な状態にあつたこと、川南、篠田、小池がこの情勢をみて翌年の三月頃には共産革命が必至であると信じ、その前に同志を糾合して決起しなければならないと考えていたこと、同人らがその信念、情熱、説得力等によつて他の被告人らを本件に引き入れていつたこと等の事情があること、川南の考え方、着想、実行力等には、他の追随を許さない秀れた点がみられる半面、その言動には、常識では理解しがたい点が少なくなく、これが本件の理解を困難にしている一因と考えられること、本件は政治目的をもつてする騒擾および殺人の陰謀と解されるが、指導的立場にあつた川南には、本件を実行することによつて自ら政権の座につこうとする野望も観取され、したがつて、本件の実体は、一層重大な内容の陰謀ではなかつたかとの疑いもあること、本件陰謀の過程では、川南、小池から閣僚、一部議員等の殺害ないし処刑の強硬論が出されたこともあつたが、桜井から流血の惨を強く戒められた関係、篠田はじめ他の多くの被告人も桜井と同様の考えであつた関係等から結局本件は、騒擾を主体とし、その過程で、抵抗する者等に対し殺傷の結果を招くのはやむをえないという程度の陰謀に終つたと認められること、ただ全体の動きを如実にみると、本件をめぐる被告人らの言動には、気持だけが先走つて足が地についていないような面もすくなくなく、計画自体にかなりずさんな点が認められること、しかしいずれにせよ、本件は、いまだ社会に対し、何ら有形的害悪を与えていないこと等が、その特色である。

(二)  右の諸事実を通観していえることは、第一は、言葉の厳格な意味において、本件がある特定の時代の所産であるということ、すなわち、本件は、左右両翼の不祥事が相ついで発生していた不安な社会情勢を背景にしたもので、かような時代的背景なしには、起こりえなかつたであろうということ、第二は、本件は、川南、篠田、小池、特に川南の経済力、指導力等をはなれては考えられなかつたであろうということ、第三は、被告人ら全員に共通していえることとして、被告人らがどんな理由、動機、事情からにせよ、すくなくとも当時は、自分達だけを憂国の士であるように思いこみ、自分達の情勢判断や考え方だけを正しいとし、法を破り暴力に訴えてでも、その意図する国家革新を実現しようと決意していたということである。右の三点は、本件の刑を量定するにあたつて是非考慮しなければならない諸点であるが、特に第三の点が重要である。

(三)  川南を中心に篠田、小池が国家の現状を憂え、これに対して独自の情勢判断をくだし、川原独特の構想にもとづく政治的施策によつて国家の革新をはかろうと考えていたこと自体は、かりにその考え方に偏つた点、合理的でない点、空想的な点等があるとしても、同人らの自由であつて、裁判所がかれこれいうべき筋合いのものではない。またかような考え方の当否を単なる研究討議の対象とすることも、別に問題にはならない。なぜなら思想、言論はあくまで自由であつて、思想は思想によつて言論は言論によつて争われ、やがて正しい方向に発展してゆくというのが民主主義の信条であり、基本観念であるからである。しかし川南らが自分達の情勢判断を、――それが狭い範囲の観察、情報源にもとづく不確実なものかどうか反省せず、――絶対に誤りないものと確信し、自分達の思想や政策を、――それらが識者の批判にたえ、国民多数の支持を受けうるものかどうか顧慮せず、――絶対に正しいものと独断し、更に進んで、自分達の思想や政策を、――自分達だけが愛国者であり、憂国の士であるという過剰な自信のもとに、――法を無視し暴力に訴えてでも実現しようと企図し、その危険が客観的にも切迫したと認められる事態となるならば、それは、民主政治の根底をゆるがすおそれのある危険な行為として厳しく取締られ、処断されなければならない。川南らの企図は、すでにこの段階に達していたと認められる。川南、篠田、小池の三名、特に川南は、本件のすべての面で指導的役割を演んじたという意味において、また若い純真な他の被告人ら(無罪となつたものを含む。)を本件に引き入れ、または引き入れようとした意味において、その責任はきわめて重大であるといわなければならない。

(四)  安木、川下、老野生は、川南らに説得され、あるいはその気魄、情熱に動かされて本件に加担するに至つた点、本来の考え方が比較的常識的で、本件でも途中から若干消極的な気持になつていたとみられる点等において、情状に酌むべき点はあるが相当の年令に達しながら、その言動に慎重さを欠いていた点、本件における下準備等の面で看過しえない役割りを演じている点等において、その責任は、やはりは軽いとはいえない。

古賀は、稀れにみる純真な人柄のようで、本件に加担するに至つた事情も、ただ純粋に国を思う念と深く傾倒していた篠田とただ行を共にしようと願つた結果からであると考えられ、本件においても、篠田に命ぜられるまま若干の下準備的行動をしたにすぎず、その責任は、それほど重くないが、古賀については、右のような純真さも、現実の社会生活の面では、往々悪に導くおそれがあるという点が反省されなければならないと考える。また落合については、その考え方、言動等にやや一面的な過激な点がうかがわれ、この点は、同人自身のためにも強い反省が望まれるが、本件においては、小池に命ぜられるまま一部の下準備的行動をしたにすぎないので、その責任は、ほぼ古賀と同程度と認められる。

(五) 以上に明らかにした諸事情のほか、本件が、社会人心に与えた衝撃、同種事件を誘発する一契機となるおそれも全くないとはいえないこと等を考えると、社会情勢がかわり、被告人らを本件にかりたてた諸要因がすでに著しく後退していること、被告人らが現在では悪夢からさめたような気持で、いずれも社会人として有為健全な生活を送り、または送ろうとしていること、被告人らに特にとりたてるような犯歴等がないこと、被告人らが相当長期に及んだ本件審理に終始誠実な態度で関与し、すくなくともこの面では法を遵守する態度を実証したこと等の事情を酌むとしても、被告人らに対しては、本件における立場、その演じた役割り等に応じ、各主文程度の刑を科する必要があると思われる。

(六) 個別的情状を一言附加すると、川南については、過去にその事業面で種々の社会的貢献をしていること、相当の年輩で現在高血圧症に悩まされていること、篠田については、殺傷をつつしむという強い信念のもとに、本件でもこの種の論議に対し消極的態度をとつていたこと、小池については、家庭生活に同情すべき点があること等の事情が考慮されたが、本件の重大性と、本件で指導的役割を演じた同人らの責任を(川南については、更に関税法等違反の責任をも)明確にする意味において、情においては忍びないものがあるが、それぞれ主文程度の実刑はやむをえないと認めた。他の被告人らについては、すでに説いたところ以上に附加する必要はない。

そこで、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官横川敏雄 裁判官吉沢潤三 柴田保幸)

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